今年開催されるサッカーワールドカップ南アフリカ大会。日本代表は、昨年6月に世界の先陣を切って同大会への出場を決めた。「ドーハの悲劇」(1993年)の忘れようにも忘れがたい辛酸を経て、4大会連続での出場となる。かつて「他人事」としてしか眺めることのできなかったサッカー最高の祭典W杯だが、今では、ピッチやスタンドに日の丸を見ることに違和感はない。
Jリーグ創設によるプロ化が、日本サッカーのレベルアップを加速させたことは相違ないところだが、日本サッカー近代化の礎はドイツ人コーチ、デットマール・クラマーの登場に求められる。クラマーの名前は、メキシコ五輪における日本銅メダルの栄光と結びついてこれまでもしばしばメディアで取り上げられてきたが、その出会いの瞬間から現在まで、本人と親しく交流してきた元朝日新聞記者中条一雄氏の上梓した『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』には、クラマーが日本サッカー界にもたらしてくれた多大な功績が克明に綴られている。
日本サッカー界にとって僥倖だったのは、
クラマーが技術面での指導に卓越していたことはもとより、厳しくも精神性豊かな人格者であったこと。クラマーは、基本を重視し、理論的なトレーニングを施すとともに、選手たちと起居をともにし、アマチュアの身分ではあった当時のメンバーたちに、サッカーへ取り組む姿勢や、サッカーを通じた人格形成など選手たちの精神的な成長を促そうとする。また代表チームの指導の一方で、日本全国を巡回して行ったサッカー教室や講習会を通じて、一般プレーヤーや指導者の裾野拡大や技術向上にも注力したことが知れる。
クラマーは、1962年5月でいったんアドバイザーの役目を終えて帰国するが、その後も西ドイツサッカー協会のスタッフやFIFAコーチを務めるかたわら、1968年のメキシコ五輪まで本務の合間をぬって自発的に来日し、無給で日本チームを指導し続けたという。
そして、メキシコ五輪で日本チームが銅メダルを獲得した直後、クラマーは選手村に駆け付け、力を出し尽くした代表メンバーが、一様に部屋のベッドに倒れこんでいた光景を目の当たりにして、「今、真のヤマト魂をみている」「空前絶後のスポーツの至福の瞬間だった」と感激に浸っている。
メキシコ後、長らく日本サッカーの低迷が続いてクラマーを切歯扼腕させるが、やがてクラマーの教え子ともいうべき川淵、長沼、岡野らの尽力でJリーグが誕生、ワールドカップへの道が開かれた。
クラマーと日本サッカー界との邂逅には、サッカー先進国ドイツサッカー協会の協力があった。クラマーを日本に引き合わせたのは、西ドイツ代表監督を28年にわたって務めた大御所ゼップ・ヘルベルガーだったが、メキシコ銅メダルの際に、ヘルベルガーは、『これこそドイツのメダル第1号だ、おめでとう』とクラマーに祝電を送ったという。
指導者として世界的に誉高かったクラマーには、ヘルベルガーの後釜としてドイツ代表監督就任のチャンスも訪れたことがあった。結局後任として、ヘルムート・シェーンが1964年に西ドイツ代表監督に就き、クラマーはアシスタント・コーチとしてシェーンをサポートした。しかし、同じヘルベルガー門下でありながらふたりの戦術やコンセプトには違いがあり、程なくクラマーは代表チームを離れる。
ヘルムート・シェーンを軸としたドイツサッカー史やワールドカップにおける名勝負、選手群像については明石真和氏による『栄光のドイツサッカー物語』に詳しい。
Posted: 12 January 2010
Reference: 『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』
『栄光のドイツサッカー物語』


