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日中戦争・太平洋戦争史

零戦

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 は日本軍主導・攻勢 は連合国側攻勢・日本軍情勢不利

 

太平洋戦争

2001年9月11日の同時多発テロから10年、ウサマ・ビンラディンがアメリカの秘密作戦によって暗殺された。長年の追跡の末に、遂に下された鉄槌。アメリカ国民が歓喜の声をあげている様子がテレビニュースに映し出されていた。

振り返ればあの衝撃的なテロ発生の翌日、アメリカの新聞メディアは「これは戦争だ!」との見出しを一面に大きく掲げ、さらに「アメリカにとって、真珠湾攻撃以来の屈辱」と表現していた。

日本軍によるその真珠湾奇襲攻撃は、1941年、現地ハワイ時間で12月7日、日曜日の朝のことだった。少なからぬ海兵隊員が教会での礼拝へ赴くために任務を解かれ、一方、基地内の隊員の多くは就寝中だった。午前7時2分、2人のレーダー監視員が、北方面からオアフ島に向けて、大飛行軍団が接近していることに気づいたが、丁度その頃、米本土からB-17部隊が、島に飛来する予定になっていたことから、警報発令は必要ないと指示された。こうして日本海軍航空部隊は、アメリカの警戒を潜り抜け、オアフ島になんなく到達できたのだった。

そして午前7時55分、日の丸を両翼にあしらった一機の爆撃機が、雲間をぬって突然オアフ島上空に現れる。続いて350機にのぼる大飛行部隊が、真珠湾に広がる米海軍基地と洋上に停泊する軍艦目掛けて急降下爆撃を次々と加え始めた。2時間余りのまさに神風の如きこの急襲によって、米太平洋艦隊は壊滅的な打撃を蒙った。太平洋艦隊が保有していた8隻の戦艦のうち、5隻が撃沈され、7隻の駆逐艦・巡洋艦等が撃沈または破壊された。さらに港湾設備や200機近い航空機が損壊した。多くの海兵隊員が勇猛に反撃を試みたが、死傷者は2,400人に達し、1,200人が負傷した。対する日本軍の被害は、30機あまりの戦闘機と5隻の小型潜水艦、100名以下の死傷にとどまった。

日本との外交交渉が決裂してから、フランクリン・ルーズベルト大統領とその側近は、日本軍による攻撃が真近に迫ってきたことを察知しつつも、対日戦略の要衝である真珠湾海軍基地の防衛強化を怠っていたとされる。それは日本側の先制攻撃を誘発し、反戦論が根強かった国内世論を対日開戦にまとめるための意図的なものだったという証言も、後に浮上している。

それはともかく、米側に幸運であり日本側に誤算だったのは、3隻のアメリカ主力空母のすべてが洋上訓練のために、真珠湾を離れていたことだった。この3隻の空母「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」こそが、半年後のミッドウェー海戦において米側を勝利に導き、緒戦の日本軍の攻勢から形勢を一挙に逆転させる立役者となるのだった。

真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は上下両院の合同議会で、「昨日、1941年12月7日は、我々が汚名のうちに生きる日となるであろう。アメリカ合衆国は、何の予告もなく計画的に大日本帝国海空軍部隊の攻撃を受けたのである...この痛手にどれほどの時間がかかろうとも、米国民は正義の力で完全な勝利を手にする」とゆっくりと短くも力を込めた演説を行い、対日開戦の承認を議会に要請した。

結果、上院は賛成82、反対0、下院は賛成388、反対1の圧倒的支持をもって対日宣戦布告がなされ、以後3年8ヶ月にわたる太平洋戦争は正式に幕を開けた。

Posted: 21 May 2011

References:Pearl Harbor bombed日中戦争太平洋戦争