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チェ・ゲバラ

アメリカによる実質的な支配と経済搾取にフィデル・カストロが反旗を翻し、2年余りの激しいゲリラ闘争の末、1959年にキューバ革命を達成。以後、キューバはアメリカとの危うい緊張関係を保持しながら、社会主義国としての体制を維持してきた。photo-che-public-domain2009年1月1日、キューバは革命戦争勝利50周年を祝したが、革命をカストロとともに成功に導いた立役者として、チェ・ゲバラ(エルネスト・ゲバラ)が光を放つ。

ゲバラは1928年にアルゼンチンに生まれ、大学卒業の後、1956年メキシコでカストロを指導者とするキューバ人グループに加わった。程なくゲリラ戦士としての卓越した能力を発揮し、カストロの右腕となってバティスタ政権の腐敗と蛮行を糾弾、反政府運動を主導し、革命を成功させる。社会の因習に縛られず、私心なく革命に身を投じたゲバラは、その精悍かつ端正なルックスも相まって、伝説的なカリスマ戦士として今も世界中で人々の心を引き付けている。

ゲバラ生誕80年ということもあり、2008年、ゲバラの成功と挫折を描いた映画『チェ28歳の革命』『チェ39歳別れの手紙』がスティーブン・ソダーバーグによって製作・公開された。一部ジャーナリストからは、南米山中におけるゲリラ戦の苛烈さを表現しきれていないとする劇評も受けていたが、『28歳の革命』は、さながらドキュメンタリーフィルムを見るかの如く、ゲバラを中心として革命が成就するまでのプロセスが実によく理解できる。

カストロとゲバラが出会い、周到な準備を経て同志80人の兵士とメキシコからグランマ号に乗船し、キューバ南東のオリエンテ州ビノクに上陸する。ところが、上陸直後いきなり政府軍の急襲に遭遇し、カストロ軍は散り散りになりわずか17名が生存するばかりとなる。 前途多難なスタートから徐々に態勢を立て直し、ジャングルでの過酷なゲリラ戦を続ける中で、地元農民達の支持を次第に獲得し勢いを増していく。それには、カストロの指導力・戦略的能力とともに、ゲバラの人間性が大きくものをいう。医者として、進軍地域で病に苦しむ人々に治療を施し、戦いの合間には、静かに読書にふけり日記を書く。粗野な兵士たちに、農民への収奪を戒め、革命の倫理や意義を説きながら精神的支柱となって統率を強める。

キューバ人でないゲバラが、キューバ独立革命にエネルギーを注いだ背景には、彼の青春期の南米放浪旅行が色濃く投影している。ゲバラ(エルネスト)は幼い頃から喘息に苦しみ、自分の病気を理解したいという欲求もあって医学を志すが、その学生時代は、国家主義者や左翼による政治運動がラテンアメリカ各地で台頭し、政治的にも経済的にも南米全体が混乱していた時期だった。

好奇心と冒険心に溢れたゲバラは、チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記 大学の試験終了後、親友のアルベルトとともに荷物をまとめてバイク"ポデローサ号"にまたがり、ブエノスアイレスを出発して、無鉄砲な南米放浪の旅に出る。未来への夢と希望に高鳴る胸を押さえて旅立ったゲバラが各地で目にしたのは、ハンセン氏病療養所の悲しい実態や貧困にあえぐ先住民の姿。大国の殖民支配を懐疑し、抑圧されたラテンアメリカの解放という壮大な夢を抱くに至る。

ゲバラの青春期の流浪の様子は、ゲバラが記した「チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記」を原作に『モーターサイクル・ダイアリーズ』として映画化された。

ゲバラは、キューバ社会主義国家建設の礎を築いた後、根っからの革命家としてコンゴに新たな活動の場を求め、さらに続いてボリビアに渡りゲリラ軍を指揮する。このボリビアで政府軍に捕らえられ、1967年10月9日にあっけなく処刑された顛末は『39歳別れの手紙』に描かれた。キューバでの戦いと異なり、ボリビアでは戦略的な目論見が崩れたり、兵士達の士気の稀薄さ、地元民の裏切り、ゲバラの体調の悪化などが革命を阻む。しかし、辺境の地から都市へ進軍していく原始的で迂遠とも思えるゲリラ戦を継続していく中、こうしたほころびが生じるのがむしろ通常であって、キューバにおける武闘革命の成功は、まさに奇跡の産物だったということが、『28歳の革命』『別れの手紙』を通して観ることで実感される。

ゲバラの死体の所在は長らく不明のままだったが、1995年ボリビアで埋葬場所が発見された。遺体はカストロが迎えるキューバに帰還し、1997年10月17日、新しく建設された霊廟で追悼式が盛大に行われた。

Posted: 2 February 2010